19世紀イギリス新聞紙から見る中国人喫煙図像と阿片貿易論争

陈其松

提要:中国人含著烟管吸食鸦片的形象,在19世纪西洋的各种视觉媒体中并不少见。除明信片、照片复制之外,大量发行的图像新闻也是这类形象流传的重要途径。然而,西洋报纸中所刊载中国人抽鸦片的图像,并非只是对中国人抽食鸦片的习惯与事实的直白陈述。图像的刊载其实与当时英国甚嚣尘上的鸦片道德论争有重要连动关系。正反双方无不引用中国人与鸦片的图像佐其论据,试图在舆论战中取得先机。本文聚焦于The Illustrated London NewsThe Graphic两份立场各异的英国画报,尝试还原鸦片相关图像的刊载背景与其所代表的意识形态。从而揭示经济力量与媒体结合后如何尝试主道公共舆论;而图像作为言说角力的视觉战场,又发挥了何种与文字媒体不同的历史作用。

关键词:鸦片贸易 图像新闻 西洋画报 东方主义 视觉言说

はじめに

中国人の阿片喫煙問題に対し、西洋世論において本格的な関心を集めたのは19世紀の70年代以降のことである。阿片関連図像記事の掲載は、阿片戦争直後の40年代、50年代にはあるものの、60年代、70年代に入るとその関心が劇的に低下し、関連記事、図像が殆ど見当たらない。中国人と阿片窟の報道記事が頻繁に西洋図像新聞紙に掲載されるようになったのは、後の80年代を待たなければならなかった。

しかしながら、イギリス新聞紙に掲載された中国人の喫煙図像は単なる中国人の阿片嗜癖の図像記録だけではない。イギリスでは阿片貿易の道徳論争を背景にして、新聞に賛否両派の白熱な攻防戦が繰り広げられていた。各新聞紙の相違する立場も、阿片記事の報道姿勢や図像掲載に影響を与えた。喫煙に対する「図像記録」という表層の下には、阿片貿易と関わる各勢力の拮抗という底流があった。

西洋における阿片論争についてすでに先学により多くの研究業績が残っているが、新聞図像を、阿片論争の一つの戦場とした視野は、今まで注目されていない。[1]本章は、イギリスの大手図像新聞紙、The Illustrated London News(ILN)とThe Graphicに見られる中国人の喫煙図像を紹介し、イギリスの阿片貿易論争が如何に新聞図像の上で展開されたかについて検討したい。

一 阿片貿易反対のILN

「阿片貿易」

1841年の阿片戦争時に発刊され、後にイギリスの有力紙となったILNが早くも阿片貿易問題に目を配った。1843年7月8日にILNが「阿片貿易」(The Opium Trade)と3点の図像(【図1】、【図2】、【図3】)を掲載した。この長文に、インド阿片の製造、阿片が中国に伝入した歴史、阿片を大量に消費する現状、中国沿海の阿片密輸、中国役人への賄賂、阿片の栽培と吸食法など、ほぼ全面的に阿片貿易の実情を読者に紹介した。阿片喫煙は「致命的な消費性向」(fatal propensity)と称され、中国の阿片喫煙者が恐らく三百万人以上であると、中国における阿片問題の深刻さを報道した。さらに、阿片貿易は実質に中国への売りつけであり(We now come to the mode employed in forcing the opium into China)、中国側の禁煙強行にも理解を示した。

All classes of persons,of every grade,might be seen entering these places to indulge in the deadly gratification-nothing deterred them;and at length the evil grew to be so enormous that the Chinese authorities,who were averse to it,either from principle,or through not sharing in the spoil,resolved to act with decision,and consequently seized 20,882 chests,and had they rested at that,their conduct would have been perfectly justifiable,but they proceeded to acts of aggression by confiscating the property,and inflicting punishment on the innocent as well as the guilty.

上記に見られるように、阿片密輸が禁絶できない理由がイギリス側が現金で中国からお茶を購入しなければならない貿易体制にあることも言及されている。[2]しかしILNがこの「命取りの満足」(deadly gratification)という阿片嗜癖を食い止めようとした清政府の禁煙政策が「正当」(justifiable)であると評価している。ただ、禁煙を伴った個人資産の押収や、無実な人への処罰などには賛成できないという。

これで、この記事の作者ができるだけ中立な口調で阿片を巡る英中関係を評論したことが伺えた。掲載された3点の図像も、文章の中に言及した阿片の製造や密輸状況、中国人の阿片喫煙というシーンを取り上げ、読者に写実なイメージを与えるだけで、文章に見られる中立基調と一致しているとも言える。

【図1】阿片の包み

ILN,1843.7.8

【図2】阿片密輸

ILN,1843.7.8

【図3】ある阿片喫煙者

ILN,1843.7.8

「中国素描」

1858年11月20日、天津条約を結んだ約5ヶ月後、ILNが「中国素描」(Sketches from China)という記事と2点の図像を掲載した。その中に、中国阿片窟の図像(【図4】)と紹介記事が見られる。記事の冒頭に、この図像は広東の阿片窟を如実にスケッチ(faithfully rendered)したものであり、記者の腕で阿片喫煙者が放心状態に入る前の「白痴のような微笑み」(idiot smile)までよく再現できたという。[3]そして阿片喫煙の方法と阿片窟の内装を紹介した後、ILNが阿片喫煙について下記のように述べた。

A few days of this fearful luxury,when taken to excess,will impart a pallid and haggard look to the features,and a few months,or even weeks,will change the strong and healthy man into little better than an idiot-skeleton. In the hours devoted to their ruin,these infatuated people may be seen,at nine o’clock in the evening in all the different stages. Some entering half distracted,to feed the craving appetite they have been obliged to subdue during the day;others laughing and talking under the effect of the pipe;whilst the couches around are filled with their different occupants,who lie languid,while an idiot smile upon their countenances proves them too completely under the influence of the drug to regard passing events,and fast merging into the wished-for consummation. The last scene of this tragic play is generally a room in the rear of the building a species of morgue,or dead house,where lie those who have passed into the state of bliss the opium-smoker madly seeks—an emblem of the long sleep to which he is blindly hurrying.

【図4】「中国の阿片喫煙者たち」

ILN,1858.11.20

この記事では、阿片喫煙に対する強い嫌悪感を言葉遣いから明らかに示している。阿片喫煙者の顔の表情を「白痴のような微笑み」(idiot smile)、嗜癖者を「白痴のドクロ」、阿片窟の奥の休憩室を死体保管所(morgue)と「死の部屋」(dead house)―これら感情的な言葉で描かれた阿片喫煙は、確かに「悲劇」(tragic play)のようである。阿片喫煙が、喫煙者の体に害するだけではなく、嗜癖による精神的な影響を「白痴」「熱狂的」(madly)、「盲目的」(blindly)と表現した。

しかし、この作者には、中国における阿片喫煙の害に筆を惜しまずに力説したが、中国人に対する道徳非難が見られない。むしろ、中国人が嗜癖に陥った理由は、イギリス政府が黙認していた阿片貿易にあると言おうとしている。「中国素描」と同じ紙面に、当時反阿片運動の関連記事が掲載された。タイトルがないが、紙面の配置とテーマから考えれば、「中国素描」との呼応関係が明らかである。その内容は、Society of Friendsがダービー伯爵に進呈した阿片貿易禁止の建言書の内容紹介であった。その建言書はインドにおける阿片栽培と中国への販売に抗議した。政府の専売制を前提とするインドの阿片栽培は「インド住民を大変苦まれ、やる気を失わせている」(the cause of much hardship and demoralisation to the inhabitants)。それに英中間に「国家の名誉で誓った」(pledging the national faith)条約が結ばれたにも関わらず、阿片商人はそれを無視している。最後に、戦争の収束が見えてくる現在はまさに建言書の意見を実現させる好機であり、将来、中国との阿片貿易を合法化させる条約の締結を断じて反対するという。

以上の記事から、阿片戦争の最中にも関わらず、ILNは阿片貿易に反対する立場を取っていたことは明らかである。「中国素描」にある中国阿片喫煙者に関する描写と図像も、西洋の読者に阿片の害を認識させようとしていたものである。

「阿片喫煙者の各段階」

1858年12月18日、ILNが「阿片喫煙者の各段階」(The Opium-Smoker’s Progress)を掲載し、阿片禁止論の宣伝により一層力を入れた。阿片が身心にもたらした「邪悪な効果」について、ILNは次のように記した。

The habit once formed,its evil effects do not long lag behind. These are pains in the limbs and bowels,loss of appetite,disturbed sleep,emaciation,loss of memory,horrible apprehensions,and a general decay of the entire man—moral,mental,and physical. Even the Chinese themselves refuse to trust an inveterate opium-smoker,and regard him as capable of any crime.

また

If there be only one such case to each thousand or each ten thousand consumers,we do not envy the wealth,obtained by traffic in this drug…Every well-wisher of his fellow-men must sincerely desire the suppression of a traffic which,carries destitution and death into so many Chinese families.

この記事では、嗜癖と道徳低下、犯罪との関連を明確に宣言した上、阿片はもはやただの薬品ではない。聖書に見る人間が蛇に勧められた堕落の実のようである。記事と随伴した中国の禁煙図像を見ると、喫煙者が阿片嗜癖により困窮、堕落し、悲惨な死に至るまでの段階はまさにILNの訴えを裏付ける。(【図5】【図6】を参照)。ILNがさらにこれらの図像の内容は「信頼出来る目撃者」の観察と一致し、図像の主人公はただの一例にすぎず、実際により多くの人が阿片に苦しんでいるという。結論から言えば、ILNが読者に阿片貿易の廃絶を呼びかけた。

【図5】「中国の阿片喫煙者-中国絵師によるもの」

ILN,1858.12.18

【図6】「中国の阿片喫煙者-中国絵師によるもの」

ILN,1858.12.18

二 阿片貿易賛成の声―The Graphic

「イーストエンドのある阿片窟」

ILNの有力競争紙であるThe Graphicが1880年代から阿片の記事と図像を掲載し、阿片に関する論争に加わった。1880年10月23日「イーストエンドのある阿片窟」(An opium Den at the East End、【図7】)に、イーストエンドの阿片窟を紹介した。阿片窟は一般的に中国人により経営されていた。そこを訪れたのは主にアジア人、造船所の従業員であり、時により裕福なウエストエンド地区からの人もいたという。阿片窟内部の空間は小さく、暗く、決して居心地がいい所とは言えないが、清潔であった。そして阿片の喫煙作法が詳しく紹介され、それは記事の3分の2ぐらいの長さを占めている。最後に阿片喫煙は高価な嗜好であり、朝のコーヒーカップと同じ程度で、一薬壷(gallipot)の阿片は3ポンドとなる。一服で2、3シリングを費やした人もいるが、6ペンスの阿片を吸引するのは普通であったという。それは、喫煙に適する阿片を製造するために、巧妙な工法(ingenious processof manufacture)があったからという。[4]この記事には、阿片の嗜癖、貿易論争、道徳問題などの争点に一切触れず、ただ阿片吸引の状況を紹介したように見えるが、阿片に対する非難がないだけでも、ILNの記事に見た強固な反阿片の政治姿勢とはかなり相違する。

【図7】イーストエンドのある阿片窟

【図7】が描かれた背景には、労働階級の阿片喫煙問題への関心であった。3ヶ月後の1881年1月1日にThe Graphicの記事「阿片」(Opium)が工業都市における阿片の乱用に懸念を示した。生活、重労働、健康問題などに追いこまれた労働者は酒、阿片などに慰めを求めるしかない。しかし嗜癖が彼らをさらに貧困にさせ、その悪循環から脱出するにはより困難となった。記事には、運動、冷水かぶり、早起きなどの生活習慣で嗜癖を断ち切るといいと述べている。

【表1】阿片の製造*

阿片と飲酒を巡る論争について見てみよう

他方、The Graphicが国内の阿片使用に懸念を示した一方、海外への阿片輸出に対するまた違う意見を提示した。1881年12月10日の「綿花の輸入関税と阿片」(Cotton Import Duties and Opium)では、阿片貿易の賛否両派の拮抗が見られる。イギリス国内における阿片輸出の道徳問題論争がすでに阿片による収益に悪影響が出たと最初に述べ、アメリカのアーサー大統領(Chester A. Arthur,1829-1886)さえも「背徳で破壊的な貿易」(demoralising and destructive traffic)であると阿片貿易を呼んだと、反対派の立場の理由を述べた。ただし、阿片貿易賛成派の論点について、次のように紹介した。

But then,on the other hand,there are people,usually men who know the East well,who plainly say that the evils of opium are enormously exaggerated;that like other good things it is bad if taken in excess;that it is an indulgence which exactly suits the temperament of the Orientals,who would suffer far more if instead of opium they took to alcohol;and lastly that there is a good deal of humbug in the Chinese of ficial objections to the traffic-—the allegation being that they want to secure the monopoly of the growth for themselves.

この2つの立場に対し、The Graphicが出した結論は下記のようであった。

We offer noopinion of our own,though we are inclined to think that theuniversality of the use of opium proves that it cannot reallybe very pernicious,but we recommend all anti-poppy-juiceenthusiasts to read Sir George Birdwood’s remarkable letterin Tuesday’s Times. It seems to us that Sir George almostproves too much,for,according to him,smoking opium isa rather more harmless amusement than sucking a lump ofbutterscotch.

The Graphicがこの文章の冒頭に自分の立場を明確にすることを拒否すると言いながら、Timesに掲載されたジョージ·バードウッド(George Birdwood)の手紙に賛成し、阿片喫煙は「ただバッタースコッチ風味のキャンディーより無害な嗜好」という。ジョージ·バードウッドの手紙とは、1881年12月6日に、Timesに掲載された長文である。この文章は阿片嗜癖の危険性に反論し、急進的に阿片貿易に賛成する立場を取った。文章の冒頭に、彼は阿片喫煙は「完全に無害」(absolutely harmless)と堂々と宣言した。阿片の嗜癖に対する懸念は単なる非科学的な観察に基づくものであり、阿片の副作用はただ最も貧困で、病弱の者が過量摂取の結果である。さらに阿片より、飲酒のほうが害があるという。特に熱帯地方においては、火酒(ardent spirits)のほうが健康に悪影響を与える。喫煙の快楽は、薬物の作用より、むしろ喫煙の宗教儀式のようなプロセスがもたらした精神的な安定感というべきである。最後に、中国人に阿片を提供するのは道徳問題とは関係なく、単純な貿易行為に過ぎないという結論を下した。[5]この文章に賛同したThe Graphicの立場は明らかに宣言した「中立」とはかなりかけ離れている。

「中国の阿片喫煙者」

1883年のThe Graphicが「中国の阿片喫煙者」と中国絵師による禁煙図を掲載した。12枚の図像は、ある裕福な中国家庭の主人が阿片に染まり、断ち切れない嗜癖を満たすために家財を売却し、最後に住む所もなく、野ばらに囲まれ孤独な死を待つまでを描かれた連作である(【図16】~【図27】)。

阿片の害を講じる図像を掲載するのは、The Graphicとしては珍しい例である。しかし、それはThe Graphicの阿片貿易に対する立場が変わったのではない。図像とともに掲載した記事の冒頭に、再び阿片論争と同紙の「中立」な立場について書いている。

It is well known that widely-different opinions prevail on the subject of opium smoking. Some declare that the evils it produces are greater than those caused by alcohol,and that the British nationought to be ashamed of deriving revenue from the sale of such anaccursed thing;others(and these,as a rule,are the people bestacquainted with the East)aver that,unless human beings are to beforbidden the use of all stimulants and narcotics,opium is a whole-some sedative,and is admirably suited to the temperament and physical condition of Oriental nations. In excess they admit thatof course opium does harm,just as brandy,pale ale,birds-eyetobacco,nay,macaroons and mutton chops,do harm,if absorbedbeyond the assimilative capacity of the taker. We shall not givean opinion on so difficult a matter,but it is evident that in China there is a strong public opinion enlisted against opium,just as in England there is against alcohol.

この記事の論調は、これまで見てきたパターンで展開した。賛否両派の論述も取り上げているものの、賛成派の論理を反対派より三倍以上の長さで紹介した。この「東の世界を最も知っている人たち」の話によると、阿片は「東方諸国の気質と環境にかなり適している」という。なお、阿片問題を飲酒問題と同一視する傾向が目立っている。過量摂取による副作用は阿片独自のものではない、お酒、タバコなどの嗜好品にも見られるという。中国における阿片反対の世論も、あくまでイギリスの飲酒反対運動と同じレベルのことであると宣言している。「この複雑な件に我々は私見を言うべきではない」と言っているが、阿片反対者はよく阿片の害を過大評価しているという意見が、上記の文章から読み取れる。

【図15】『中国の喫煙者』原本(イェール大学所蔵)

“The Chinese opium-smoker:twelve illustrations showing the ruin which our opium trade with China is bringing upon that country,”(1880). Available from Yale University Beinecke Rare Book & Manuscript Library,from S.W. Partridge & Co http://beinecke.library.yale.edu/dl_crosscollex/SetsSearchExecXC.asp?srchtype=ITEM.

後の記事によると、これらの図像は、漢口に住んでいる、阿片反対運動に熱心なイギリス人に翻訳され、S. W. Partridge社から出版されたパンフレットにあるものと言う。恐らく、それは1880年に出版された『中国の喫煙者:12枚の挿絵で分かる中国との阿片貿易がその国にもたらした破滅』(The Chinese Opium Smoker:Twelve Illustrations Showing the Ruin which Our Opium Trade with China is Bringing Upon that Country)を指すのであろう(【図15】)。この『中国の喫煙者』は四章に分かれている。第一章は彩色の挿絵と文章を左右のページに配置し、絵物語のような形で中国喫煙者の堕落について説いている。第二章は「中国における阿片喫煙とイギリスにおける飲酒習慣との比較」という短い文章である。第三章は中国における阿片吸引の現状紹介であり、第四章は中国の喫煙者に対し、イギリスの道徳責任を論じる。ここで注目すべきのは第二章である。この短い文章はイギリス駐清公使トーマス·ウェード(Thomas Francis Wade,1818-1895)の1871年の発言を引用し、喫煙は飲酒より遥かに有害な習慣であることを証明しようとした。

私は[嗜癖の]有効な治療法は知らない。私が知っているすべての喫煙者は道徳的、生理的な堕落から免れない。喫煙の効果は外見から確認しにくいので、名声に悪影響を与える慣習的な酩酊より遥かに悲惨なこととなる。

ウェードの言葉を引用するのは、当時流行している、阿片と飲酒を同一視する論述に反撃するためであろう。しかし、図像を転載したThe Graphicに、阿片と飲酒を区別しようという『中国の喫煙者』の論点が完全に消された。The Graphicの記事はただ飲酒と阿片の類似性と、これらの図像は熱心な阿片反対者によるものに力点を置き、図像の主観性を読者に提示した。中国の禁煙図像が西洋人により出版された事実は、新聞紙としては否認できないが、提供する情報の選別はできる。記事の冒頭に何度も飲酒と阿片の対応関係を強調する理由もそこにある。この操作の結果は、図像自体が忠実に掲載されても、元の文脈から切り離された上、図像を解釈する権力も開放される。これらの図像は、ただ阿片反対者の妄想であるとは、The Graphicの「言うべきではない」本音である。

【表2】中国の喫煙者

小結

上述のように、19世紀図像新聞紙に見る阿片と中国との関連図像には、阿片貿易論争がその背景にあることがわかった。阿片嗜癖とそのものの害が正式の医学報告によって認められるのは19世紀末を待たなければならなかったが、西洋社会各階級に及んだ阿片の使用は、嗜癖についての一般認識と繋がった。宣教師、外交官の報告から伝えられた阿片に苦しむ中国の実情が、有識者の間に関心を集め、阿片貿易の反対運動の契機となった。イギリスの絵入り週刊新聞ILNが掲載した中国人の喫煙図像は、主に西洋読者に対して阿片が中国人にもたらした害を講じるためのものであった。阿片貿易の正当性が非難されると同時に、阿片の利益団体も新聞に寄稿し、反阿片の世論に反撃を図ろうとしていた。バードウッドがTimes紙に寄稿した文章はその代表的なものである。阿片問題に中立的であると宣言したThe Graphicは、バードウッドの文章を度々引用し、実際に阿片貿易を容認する立場を取った。The Graphicは12枚の中国禁煙図像を掲載したが、飲酒と阿片の類似性を前提にしており、同紙の中国喫煙者の悲惨な結末を描いた図像の客観性が疑われる。これでは、中国人の喫煙図像の持つ意義が、もはや中国人が喫煙している事実を描く、客観的な視覚資料を超えている。マスコミにおける賛否両方の攻防戦に取り上げられた中国人の図像は、19世紀イギリス社会における阿片問題をめぐる各勢力の拮抗と衝突の戦場となったのである。


[1] 例えば、李勇(2010)が西洋新聞に掲載した阿片関連図像について言及し、周寧(2004)も「英国报刊连环画」というタイトルの阿片関連図像12枚を提示した。しかし何れも図像自体による分析が見当たらず、情報の出典も記されていない。詳しくは周寧『鴉片帝國』、學苑出版社、2004、32、36、39頁;李勇『西歐的中國形象』、人民出版社、2010、219-210頁を参照してください。

[2] “the traffic had now as a pecuniary matter become of considerable national importance,for,as the Chinese made us pay for all our teas in hard cash,so also,in return,the opium-dealers received back that money in payment for opium,”ILN,1843.7.8.

[3] ILN,1858.11.20.

[4] “An opium Den at the East End,” The Graphic,1880.10.23.

[5] “The Morality of Opium,” Times,1881.12.6.